植民地化以降の略年表

1886年 ビルマ王国の滅亡、英国植民地に

1826年、第1次英国=ビルマ戦争に敗北したビルマ王国(コンバウン朝)は、現在のラカイン州、 タニンダーリ地方域を英国に割譲する「ヤンダボ条約」に調印。
1886年、ビルマ王国(コンバウン朝)は3次にわたる英国=ビルマ戦争に敗北・滅亡し、全土が英領インドに編入される。
★英国は、主に平野部は植民地政庁による直接統治、主に丘陵・山岳地域は土候たちを通じた間接統治を行い、両者の交流を制限した。
★旧ビルマ王国時代の国王―仏教の関係は破壊され、直接統治の地域では、法による支配にもとづく中央集権型の官僚制による近代国家が強制されていった。
★1938-39年、「ビルマ歴1300年の大暴動」起きる。反英独立闘争の展開。
1940年、弾圧によって反英独立闘争の組織は壊滅。アウンサンらは国外に逃れる。

1941年 アウンサンらがビルマ独立義勇軍 (BIA) を創設

1941年2月、アウンサン (のちに「独立の父・国軍の生みの親」とされる) は「三十人の志士」を募り、日本占領下の海南島で日本軍特務機関(南機関)から独立戦争のための過酷な軍事訓練を受ける。
同年12月、アウンサン、ネウィンらは、南機関の支援を受け、タイのバンコクでビルマ独立義勇軍 (BIA) を創設し、日本軍とともに独立戦争を戦う。
1942年5月、日本軍は英軍・英領インド軍を破り全土を制圧、軍政を敷く。旧日本軍南方軍とBIAとのあいだに、ビルマ独立について不一致が広がる。BIAはビルマ防衛軍(BDI)に改組され、その後ビルマ国軍 (BNA) に。
1943年8月、親日政府(バモオ総統)樹立、ビルマ独立を宣言。同月、BNA、人民革命党、共産党は秘密裏に反ファシスト自由連盟(AFPFL) を結成

1945年 抗日武装闘争勝利

★アウンサン将軍らは、国家主権のない名目上の独立しか認めない日本に不信感をもち、英国側に協力することを決め、反ファシスト組織を広げる。
1945年3月17日、アウンサン将軍らは抗日武装闘争を開始3月27日ラングーンで日本軍を攻撃 (国軍の日)、反ファシスト組織も全国一斉蜂起
同年6月15日、対日勝利を宣言。反ファシスト組織は反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)と改称

1945年 英国植民地支配の復活

1945年9月、英国の植民地支配(民政)復活
1946年、アウンサンはAFPFL総裁となる。
1947年1月、アウンサンは英アトリー内閣の間で、ビルマ独立を取り決めた協定に調印。
同年2月、アウンサンは、国内各民族(シャン、カチン、チンの3民族)リーダーたちと、ビルマの独立に向け連帯と協力(各州の自治・独立を認める)を確認する「パンロン合意」を発表。
同年7月19日、アウンサン将軍暗殺される。
同年10月、英首相アトリーと初の首相になったウーヌとの間で、ビルマ独立を取り決めた「ヌ=アトリー協定」に調印

1948年 ビルマ連邦独立=ウーヌ首相時代

1948年1月、ビルマ連邦独立(ウーヌ首相=議会制民主主義)
★独立直後は、国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊がシャン州でCIAも援助しゲリラ闘争を行い、中国人民解放軍と連携した国軍がこれらを一掃。
★その後も、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いワ族やシャン族、コーカン族など諸民族を下地として、ビルマ共産党 (CPB) が黄金の三角地帯の麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続。
★こうしたなか、国軍の力が強まる
1958年、ウーヌ首相から打診を受けた国軍ネウィン将軍のもとで暫定内閣(1958-60年)組閣。
1960年、総選挙で圧勝したウーヌ政権となる。

1962年 国軍がクーデター=ネウィン軍事政権によるビルマ式社会主義時代

★10年経過後は連邦離脱可能との憲法条項で離脱を図るシャン族、州独立を要求するチン族・モン族、武装闘争を始めたカレン族、カレンニー族の動きに、国軍は危機感をいだく。
1962年3月2日、国軍がクーデター 、ネウィン将軍を議長とする革命評議会が全権を奪取以降、2010年代の一時期を除き、軍政がつづく
★ビルマ社会主義計画党(BSPP)による「ビルマ式社会主義」を掲げ、経済国有化、鎖国政策を実施した結果、経済は疲弊化する。
★国軍が、英国植民地時代に形成された官僚制に取ってかわって国家運営を担うようになる。
★少数民族の自治権を奪った。
1974年、新憲法を発布し、ネウィン大統領となり、ビルマ連邦社会主義共和国に国号変更したが、実態は変わらなかった。同年末、長く国連事務総長を務めたウタントが死去し、その埋葬をめぐって学生主導の抗議行動が起きたが、弾圧される。
1982年、改正国籍法。135民族を先住民族とする。

1988年 8888民主化運動と国軍のクーデター

1988年8月、大規模民主化運動 (8888運動) 起きる。
同年9月18日、国軍は国家法秩序回復評議会(SLORC)を設置し、クーデターによって権力奪取、軍部独裁政権。民主化運動を武力で徹底的に弾圧し、学生ら数千人を殺害
同年9月29日、民主化指導者アウンサンスーチー氏登場し国民民主連盟(NLD)結成
1989年、軍政は英語国称をミャンマー連邦に、首都名をラングーンからヤンゴンに変更
同年から、国軍はアウンサンスーチー氏を拘束し、自宅に軟禁
1990年、総選挙でNLDが圧勝するも、SLORC(軍政)は政権移譲を拒否
1991年、アウンサンスーチー氏、ノーベル平和賞受賞。
1992年、SLORC議長にタンシュエ将軍が就任し、独裁政権となる。
1995年、アウンサンスーチー氏、法律に従って自宅軟禁から解放されるが、軍政からの迫害がつづく。
1997年、軍政に対し、欧米諸国から経済制裁、ASEANからの投資凍結を受ける。
同年、軍政、SLORCから「国家平和発展評議会 (SPDC)」へ名称変更。
2000年、アウンサンスーチー氏、2回目の自宅軟禁、2002年に解放される。
2003年、遊説に訪れたモンユワで、アウンサンスーチー氏らは木刀を持った数千人に襲われ、NLD党員らが100人以上殺害される「流血のディベーイン事件」発生。
同年、アウンサンスーチー氏、3回目の自宅軟禁に置かれる。
2005年、首都を、ヤンゴンからネピドーに移転

2007年 サフラン革命とつづく軍事独裁政権

2007年、ヤンゴンなどで僧侶を中心とした大規模な民主化デモ (サフラン革命)。ジャーナリスト長井健司氏、取材中に軍兵士に射殺される
2008年、新憲法(2008年憲法)が国民投票の結果、「投票率99%、賛成率92%」で承認される。
2010年、公正な選挙が行われないとしてNLDがボイコットした総選挙で、国軍系の連邦団結発展党(USDP=総選挙前に軍籍を離れたテインセン氏が党首)が大勝
同年11月、アウンサンスーチー氏の自宅軟禁解除。
同年、軍政への国際的な非難・制裁が強まる。

2011年 民政移管=テインセン政権時代

2011年、民政移管=テインセイン大統領。国軍総司令官にミンアウンフライン就任
2015年、総選挙で国民民主連盟(NLD)が第一党となる。

2016年 NLD政権(アウンサンスーチー国家最高顧問)時代

2016年、国民民主連盟(NLD)政権成立し、アウンサンスーチー氏、国家最高顧問に就任
2017年8月25日、ラカイン州北部でロヒンギャ武装勢力ARSAが警察施設・国軍施設を攻撃したことをきっかけに、国軍がロヒンギャに対する「クリアランス作戦」を開始。
2020年11月、総選挙でNLDが圧勝し、USDPは憲法で確保された軍人枠15議席を確保したのみ。

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