ラカイン州

ラカイン州は、こんなところです。

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・ミャンマー西部に位置し、西側はベンガル湾に面し、西端はバングラデシュと国境を接しています。
・ラカイン山脈はミャンマー西部のラカイン海岸とエーヤワディー川渓谷の間にある山弧です。
・首都はシットウェです。サンドウェにはラカイン州の主要空港があります。
・産業は、主に米作を中心とする農耕、ベンガル湾での沿岸漁業です。
・近年、ラカイン海岸沿いに有望な海底ガス田が発掘され、開発が進められています。

ミャウウーパゴダ

・主にラカイン族が居住しており、仏教徒です
・古代の仏塔や寺院が何百もあり、特に古代都市ミャウウーに多くあります。

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ラカイン州の写真館

photo credit:Tin Oo Maung

ロヒンギャ

•ラカイン州の地には、15世紀前半から18世紀後半までアラカン王国が栄えていました。このころは、多数派の仏教徒と少数派のムスリムは共存していました。
1785年にアラカン王国が上座部仏教を信仰するコンバウン朝によって滅ぼされるとムスリムは、ムスリムの多いベンガル(現在のインド東部の西ベンガル州とバングラデシュ)へ逃げます。

•ところがコンバウン朝が英国に敗北すると、逃げていたムスリムが英領インドになっていたベンガルから戻り、1886年にビルマ全土が英領インドに編入されるとさらに移民が流入して、ラカイン北西部にはムスリムの下層労働者が定住するようになります。そして、仏教徒との軋轢が生じてきました。
•第二次世界大戦がはじまると、この地は英軍と日本軍の激戦の地となり、それぞれがこの地のムスリム、仏教徒を武装化させて戦わせるようになると、次第に宗教戦争が激しくなり、1942年の戦闘では、多数のラカイン人仏教徒が英軍支援のムスリムに殺害されたと言われています。

•1948年にビルマ連邦が成立しても対立は続き、1950年代には、食料不足に悩むベンガル(いまのバングラデシュ、当時の東パキスタン)から、多くのイスラムがラカインに流入し、さらに仏教徒との対立が激化していきます。この時期に、ラカイン州北西部に住むムスリムが自らを「ロヒンギャ」と名のります。
•ネウィン軍事政権時代の1982年、135民族を先住民族と規定する改正国籍法が定められ、ロヒンギャは先住民族とは認められず、帰化も認められず、国籍が与えられない存在とされます。
•こうしたなか軍事政権はロヒンギャへの迫害を強め、ネウィン政権下で約30万人がバングラデシュに難民として逃れました。

2012年にロヒンギャ(ムスリム)と仏教徒との大規模な衝突が起こり200人以上のロヒンギャが殺害され、5年間で、ミャンマーから逃れたロヒンギャは16万8千人以上と推計されています。
2016年10月にラカイン州でロヒンギャを名のる武装集団が警官を殺害したことをきっかけに、国軍はロヒンギャの住居1,500棟を全焼させ、暴行、レイプなどの非人道的攻撃を加えました。

•さらに2017年8月、アラカン・ロヒンギャ救世軍が犯行声明を出した20か所以上の警察駐在所襲撃事件が起きると、国軍はロヒンギャの村全体を焼きつくすなど大規模な迫害を行い、数万人が家を失い、2017年以降、国外に逃れたロヒンギャは60万人を超えると言われています。
•国際的に、こうした迫害はロヒンギャへの民族浄化作戦あるいはジェノサイドとして非難され、英米を中心に各種制裁が行われています。
•これに対して2017年にミンアウンフライン最高司令官は「ベンガル人はミャンマーの民族ではない。1942年に2万人以上のラカイン人が殺されたことこそが真の歴史」であると主張し、国軍はベンガル人による不法占拠やテロに合法的に対処したまでだとして、非難に反発しました。
2019年、アウンサンスーチー国家顧問兼外相は国際司法裁判所(ICJ)に出廷し、同国軍がロヒンギャ族へジェノサイドを行ったとの訴えに「不完全で不正確だ」と反論しました。

2021年5月、国民統一政府(NUG)はロヒンギャに対する基本政策を発表し、ロヒンギャを正式な民族として認めることを表明しました。

(なお、北川成史『ミャンマー政変 クーデターの深層を探る』(ちくま新書) が、ラカイン州への現地取材をふまえ、ロヒンギャ問題について詳しく説明しています。)

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