原文は、ノルウェーの研究者による ”From Refugee to Role Model: A Journey of Resilience and Advocacy” (英文) で、ティンウィン(Tin Win)氏へのオンラインでの連続インタビューに基づき執筆されたものです。翻訳者は、岐阜女子大学南アジア研究センターの副センター長・福永正明先生。
ティンウィン氏は1974年からビルマ民主化活動に献身し、政治的迫害を逃れて日本で難民生活を送り、総選挙でのNLD大勝を受けて帰国したものの、2021年クーデターで再び祖国から日本に逃れてきました。
小見出しは本サイト掲載に当たりサイト担当者が付したもので、適宜改行を挿入しました。
1974年以降の歴史について、https://savemyanmar-sakura.jp/colonization/ をご参照ください。
目 次
はじめに
個⼈の将来の姿を決するのが「富」や「⾎縁」などの特権とされるこの世界において、⼈びとへの不屈の貢献、正義の絶え間ない追求に突き動かされ、特異な道を選択する⼈もいる。
この⼩⽂は、⺠主主義と⼈権の⼤義に揺るぎない献⾝を捧げ、多くの⼈びとの⼈⽣に忘れがたき影響を与えた、傑出したビルマ⺠主化活動家・⽇本における難⺠の⼈⽣を描いている。
裕福で恵まれた家庭に⽣まれたティンウィン(Tin Win)は、多くの同世代の同胞たちが直⾯したような苦難の運命を過ごすことはなかったであろう。
だが、かれは「勇気ある選択」による⼈⽣を進み、同胞と連帯し、かれらの闘いの苦しみ、怒り、喜びを分かち合い、ビルマの「明るい未来」を勝ち取るため、⼈⽣を賭して軍事独裁と闘うことを選択した。
1974年:⼈としてあるべき社会への、⻑く多難な旅のはじまり
かれの「⻑く困難多い旅」は、名⾨ラングーン経済⼤学の新⼊学⽣時代の 1974 年に始まった。
強権的な軍政のもと、⺠主主義、⾃由などを⼤切とする「⼈としてあるべき社会」への政治的覚醒の初期、かれは活動家という「⾐」を⾝につけ、1974 年、1975 年、1976 年の歴史的な⺠主化運動デモを主催する⼀⼈となった。
これらの⾏動が、祖国ビルマのため正義と⺠主主義を執拗に追求する新しい「旅」となった。
地下潜伏の専業活動家として活動、1988年逮捕され刑務所へ
⼤学卒業後、かれは地下潜伏の専業活動家として活動した。そして、フリージャーナリストとして、抑圧され疎外された⼈びとの権利擁護のため、その優れたスキルと発⾔⼒を発揮した。
1987 年には、厳しい抑圧の政治体制に挑戦するとの揺るぎない決意に突き動かされ、連続する歴史的な⺠主化デモを計画する地下活動家グループの⼀員となった。
1988 年、⺠主化を求める歴史的闘争のさなか、かれは上ビルマにおけるイスラム教系住⺠の指導者に任命された。
だが、⼤義への献⾝が災いし、1988 年 9⽉ 25 ⽇に逮捕され、1989 年 2 ⽉ 10 ⽇までマンダレー刑務所で過酷な⽣活を強いられた。
1989年:アウンサンスーチーさんと協⼒、そしてNLDの初期メンバー
釈放後、かれは尊敬する指導者アウンサンスーチーさんと密接に協⼒し、それは同⽒が 1989 年 7 ⽉ 20 ⽇に⾃宅軟禁されるまで続いた。
このように、かれは逆境と迫害に直⾯しながらも、ビルマ⺠主化という「⼤義」に向けて献⾝を続けた。
⺠主主義を求める⺠主化勢⼒が 1990 年に国⺠議会総選挙において地滑り的⼤勝を得てから記念するべき 6 周年となる 1996 年 5 ⽉、国⺠⺠主連盟(NLD)が初の党⼤会を開催、かれは極めて重要な政治地位・役割を果たした。
第 1 回党⼤会の全会期に出席した党員 101 ⼈のうち、「⺠主的新憲法」の起草委員会のメンバーに選ばれたのは、かれの専⾨知識と献⾝の証である。
しかし、ビルマの政治情勢が危機的状況となるにしたがい、再逮捕の脅威が⼤きくなった。
1996年:再逮捕の脅威が迫り祖国を脱出、日本での20年以上にわたる難民生活
差し迫った危険に直⾯したかれは、1996 年 9 ⽉ 25 ⽇、祖国から脱出するという⼈⽣を変える決断を下した。そして、かれの逃避⾏は、1996 年 11 ⽉ 17 ⽇に⽇本に到着し終結した。
⽇本での到着後、幸いにも早期に法務省の「難⺠認定」を受けることができたが、その滞在⽣活は⼤変厳しい⽇々であった。
特に⽇本では、難⺠を対象とする⽀援制度が官⺠ともに機能しておらず、たとえ難⺠認定を受けたとしても、厳しい⽣活を送る必要があった。かれは 20 年以上も⽇本の⼯場で働き続けることを余儀なくされた。
かれによる無私であり、ビルマから脱出するという重⼤なる決断は、かれの⼤義への献⾝と⾃⽴の強い意志を⽰すものであり、またその⽣活姿勢の尊厳は公的機関や⽀援者などに⽣活費の⾦銭的⽀援を求めることはなかった。
2002年:在日ビルマ市民労働組合設立
⾃らが厳しい状況において暮らすにもかかわらず、かれはビルマ⼈をはじめとする国内外の労働者の権利と労働環境の改善を図ろうと初の労働組合の設⽴に尽⼒し、⽇本政府に正式な「労働組合」として登録された。
この労働組合では、難⺠⽀援制度の改善や、難⺠、庇護申請者、移住労働者の⽀援に⾝を捧げ、わずかな収⼊ながら、真のボランティア活動を続けた。⽇本で移⺠労働者のための労働組合を設⽴したかれの活動は、数え切れないほどの⼈びとに⼒を与え、多くの⼈びとの⽣活を改善した。
幸いなことにかれは、⼦供たち 3 ⼈全員に⽇本の有名⼤学を卒業させることができた。あらゆる困難を克服し、献⾝ (dedication) としなやかな忍耐力 (resilience) が最も困難な状況さえも克服できることを証明したのである。
⽇本滞在においてかれは、受け⼊れ国の法律を守るという揺るぎない決意を⽰し続け、在⽇ビルマ⼈社会の指導者として活躍した。
さらに、かれの祖国ビルマの⺠主化を進める決意と奮闘は、2010 年代のある程度に⺠主化が進展したビルマに帰国した⼈びとにも希望の光となっていた。
⺠主主義と⼈権を求めるかれの継続的な闘いは、それだけで終わらなかった。
2015年:NLDが総選挙で圧勝、祖国へ帰国
かれが祖国ビルマに⽇本から帰国したのは 2015 年末であり、NLD が総選挙で地滑り的な⼤勝を収め、すべてのビルマの⼈たちに希望と期待を与えた。
⺠主的なビルマという夢が現実に近づき、かれは祖国の発展に貢献する決意を固め、地元社会への復帰を決意した。
学⽣時代から⺠主化と⼈権のための闘いに⾝を投じて以来、他者には計り知れない困難や苦境に直⾯してきたかれだったが、当初の決意が揺らぐことはなかった。
経済学を専攻した研究者として、政治・経済問題の複雑さを深く理解しており、さらにそれらを⻑年の⾃⾝の活動やアドボカシーに⽣かしている。その専⾨知識とビルマの政治情勢に関する個⼈的な経験や深い知識に基づき、かれは⺠主化を求める闘いにおいてかけがえのない存在である。
たゆまぬ努⼒により、かれはビルマの⼈びとの苦境への国際的認識を⾼め、さらに改⾰と対話のプラットフォームを構築した。
かれは帰国から 5 年以上の期間、宗教暴動が頻発するビルマにおいて、⼈権や⺠主主義のための活動、そして宗教間の対話の活動に集中していた。
2020 年 11 ⽉の総選挙において、3 度⽬の⼤勝となった⾃らの NLD の選挙運動に深く関わった。だが、その直後にかれの運命は再び⼤きく揺れ動いたのである。
2021年2月1日:軍部による3度目のクーデター
総選挙当選議員たちが構成する国⺠議会の召集⽇早朝 (2021 年 2 ⽉ 1 ⽇)、軍部は⾃国の歴史上 3 度⽬のクーデターを起こした。
2010 年代のビルマは、真に連邦化された⺠主連合建設に向け、ゆっくりだが着実に前進していた。その動きも中断となり、「軍独裁」による圧政へ U ターンした。ビルマは、再び混乱のスパイラルに陥った。
もちろんかれは、誰もが決して⼿放したいとは思わないにもかかわらず、短命に終わった⺠主化の夢を再⽣しようとする⼈びとの闘いに参加した。
まさに、かれは瓶から出た精霊のように、再び瓶の中に⼊ることを強く拒むビルマの⼈びととともにあった。
この時代の先兵である Z 世代――⺠主化社会しか知らず、⾃由を⼿放すことを強く拒む若者たち――、かれらの「隠れた助⾔者」として 2021 年以降の⺠主化運動に関与した。
だが治安当局の捜査が近づく危険を察知したことから、かれは祖国から再び脱出し、もう⼀度⽇本での活動を再開したのである。
2021 年 6 ⽉ 4 ⽇、かれは 2 度⽬の国外脱出を決⾏した。
2021 年 6 ⽉ 4 ⽇:2度目の国外脱出、日本へ
現在も⽇本においてビルマ⺠主化の闘いを続けるかれは、新しい世界である学術教育の分野にも活動の場を得た。
かれは岐⾩⼥⼦⼤学南アジア研究センターの特別研究員、法政⼤学⼤学院の⾮常勤講師を務め、さらにパソコン再⽣会社ピープルポートの技術チームの正社員として働き続けている。
恵まれた⽣い⽴ちから難⺠となり、さらに在⽇の難⺠や出稼ぎ労働者たちの擁護者、社会へ発信する⺠主主義擁護者へと成⻑したティンウィンの道のりは、多くの⼈びとにインスピレーションを与える。
⾃⼰の信念に基づく⺠主主義という「⼤義」への献⾝、無私の精神、計り知れない困難に直⾯したときの復元⼒は、世界を変えようとする意志の⼒を⽰している。
精神の強さと純粋な献⾝、思いやりがもたらす変⾰の⼒
このビルマ⼈活動家の物語は、⼈間の精神の強さと、純粋な献⾝と思いやりがもたらす変⾰の⼒の証しと結論することができるだろう。
裕福な家庭環境から、過酷な政治活動、さらにアドボカシーの最前線に⾄るまで、かれが歩み続けた道のりは、⺠衆の側に⽴つことを選び、虐げられた⼈びとの代弁者となることを選び、世界に意義ある影響を与えることを選んだ「勇気ある⼈間の選択」の物語といえよう。 かれの活動と⽣涯の業績は、将来の何世代にもわたり⼈びとを⿎舞し続け、いかなる境遇にあろうとも、⼈間には運命を切り開き、前向きな変化を⽣み出す⼒があることを思いおこさせてくれるだろう。
私たちに求められるのは、かれと強く結び連帯し、⺠主的なビルマ建設という崇⾼なビジョンを⽀持し、すべての⼈により公正で公平な世界を築くこととなるよう⽀援し協⼒することだろう。
このビルマの活動家ティンウィンの⺠主主義と⼈権への揺るぎない闘いと活動は、抑圧と不公正に対決して闘い続ける世界中の何百万もの⼈びとの希望の光である。
恵まれた家族の保護から、たくましい活動家へと変化したかれの旅は、共感のなかで正義の追求がもたらす変⾰の⼒を⽰している。逆境に直⾯したとき、かれは⾃⼰犠牲と「⼤義」への献⾝こそが、次なる前向きな変化を⽣み出し、他の⼈びとに⾏動を起こすよう促すことができると⽰した。
かれのライフワークは、最も困難な状況においても、たった⼀⼈の個⼈が⼤きな影響を与えることができるとの「信念」を体現する。
かれは⽇本では必死の努⼒を続けながら、難⺠、出稼ぎ移住者、社会から疎外された⼈びとの権利の擁護者であり続けた。それは、より⺠主的で公正な社会を追求すること、すなわち改⾰の⼒と決意の精神を体現していることは明らかである。
かれの物語は、⺠主主義と⼈権を求める闘いが特定の国や地域に限定されるものではなく、国境を越えた普遍的な「⼤義で」あることを⽰す。かれは、⽣活と社会における⾃由と正義を切望する⼈びとの希望の象徴といえるだろう。
かれの歩みを振り返りながら、⺠主主義のための戦いが現在も続き、個⼈、地域社会、国家の総⼒を結集する必要があることを思い起こさなければならない。私たちは、そうしたかれの勇気と献⾝に⿎舞され、正義、平等、⼈権が⽀配する世界を創るために⼿を携え続け、前進しよう。